いつの頃からか、「切手女子」なる言葉が定着してしまいました。
郵趣家の間で、この言葉が使われ始めてから、かれこれ20年近くは経っているでしょうか?
好きな言葉ではありませんが、僕も使ってはいます。
ただし、ちょっとした使い分けをしています。
つまり、いわゆるフィラテリストに含まれる場合は「郵趣家」と普通に呼び、単に切手を集めている(あるいは興味を持っている)だけの人に限って「切手女子」と呼んでいます。
大雑把に言うと、切手を集め、それを分類整理し、最終的に体系付けてアルバムに整理している女子を「郵趣家」。
単に集めた切手を、袋やストックブックに入れるだけの人や、ポスクロで貼り付けてあった切手に多少の興味を持つだけの人を「切手女子」と、呼んで区別しているわけです。
以下の文中に出てくる「郵趣家」「切手女子」は、上記の区別に従って使い分けています。
で、今日のタイトルの「もやもや」ですが、それは「郵趣家にとって、切手女子が大切か?」ということ。
僕の結論から先に言うと「全く大切ではない」です。
そもそも郵趣家と切手女子では「生息するエリアが違えば、目的も違う」と思っています。
もちろん中には、切手女子から郵趣家へと、華麗なる転身を遂げる方がゼロとは言いませんが、仮に居たとしても1パーセント居るか、居ないか程度だと思います。
これは、僕の切手女子としての友人達からの実感です。
以前に、知人の切手女子のグループ活動を横目で見ていたことがあるのですが、当人達はせっかく入手した切手を袋に入れているだけであったり、ちょっとまともな人だとストックブックに収納するのですが、そこでお終い。
「袋に入れっぱなしでは見れないから、リーフに整理すると、一覧性もあるし、どこの国のどんな切手かもわかるよ」と、こちらは入れ知恵したつもりでも「ポカ〜ン」って感じでした。
そもそも、切手を扱うのにピンセットを持っていないし、ストックブックから切手を取り出すのに素手という猛者も・・・。
下の切手は、ソロモン諸島が発行した「ペニーブラック発行150年」記念からの1枚で、切手収集を楽しむ子供。
当り前のように切手をピンセットで持っています。
こうした図案は各国から発行されていますし、日本だとピンセットで切手を摘んだ図案の小型印も沢山あります。
つまり、そうしたピンセットを使う光景は、ごく一般的な郵趣家のイメージであるわけです。

それともう一点。
切手女子の中には、切手の二級品、三級品に全く無頓着な方も。
まぁ、平気で素手で切手を触るのですから、無頓着で普通なのかも知れません。
シミだらけの切手でも、安ければそれに越したことはないというわけでしょうか。
僕は、なにも切手女子の存在を否定しているわけではありません。
否定していたら、切手女子の友人を積極的に持つことは無かったと思います。
ただ、切手女子と郵趣家は、全く別のカテゴリーだと思うのです。
その異なるカテゴリーに、郵趣家の側から秋波を送る必要は無いと言いたいのです。
それよりも、郵趣家の著しい減少が目に見えている現在、郵趣家によって作られた人的、資金的、知的エネルギーは、郵趣家に還元されるべきことと思っています。
ですから、無駄に切手女子を持ち上げるやり方に「もやもや」感があるのです。