鉄道郵便授受機械

画像は、明治35年6月20日発行の逓信省絵葉書「万国郵便連合加盟25年」記念6種セットの中からの1枚で、「山陽鉄道における郵便授受機械」を主題としたものとして知られています。
山陽鉄道というのは現在の山陽本線で、鉄道国有法により明治39年12月1日に国有化されるまでは私鉄でした。

山陽鉄道では明治34年から「最急行」(現在の特急に相当)を運転した際に、通過駅が多く郵便逓送に支障をきたすことから、郵袋の受渡しを列車通過時に行う装置として設置したもので、山陽鉄道の石原技師により設計されたもの。
その後、日露戦争(明治37・38年)前後から官設鉄道でも使用を始めています。
と、ここまでは樋畑雪湖が『日本絵葉書史潮』の中で述べています。

ところが、一方ではそれとは異なる見解もあります。
それによると、最初の設計者は鉄道局の畑精吉郎技師で明治31年。
これは「畑式」「鉄環式」と呼ばれ、その後の明治38年に鉄道院の吉野氏により改良が加えられた「吉野式」に改められ大正末頃まで使用されたものの、列車の高速化により事故が増えて廃止となったとされています。
これは昭和53年に「鉄道郵便車と郵便輸送」と題する解説に記されているもので、小椋嘉昭(郵政省郵務局輸送課)と小淵一夫(日本国有鉄道旅客局荷物課)の共著によるもの。
下の写真は、吉野式のものと思われます。

ということで「実際はどっち?」感満載なので、自分なりに納得できる調査が必要ですね。
あえて言わせてもらうと、樋畑雪湖の書き物には思い込みや不正確な記述が多いので、そうした意味では、その辺から疑った方がよさそうな気がします。

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