秀山堂切手の印刷

ある郵趣誌に、両国局・昭和20年1月10日消印の平山秀山堂社名入り封筒の中から「法隆寺五重塔切手の原図と写真資料」と題する、台紙に複数の原図写真が貼られた資料が出てきたことを根拠に、「昭和20年初めには、逓信省は切手製造を民間に委託する検討をしていたことがわかります」という論旨の資料紹介が掲載されています。

また、その続報として翌号には、封筒の宛地である香川県三豊郡豊浜町(紹介者は秀山堂の工場疎開先と考えておられる)においての切手の印刷製造を想定され、台紙から剥された跡が残る1枚(剥されているので写真は存在しない)を指し、「印刷の製版に使用した可能性があります」としています

下の写真は、逓信院が昭和21年1月10日に発表した「郵便切手新図案懸賞募集」の入選作品で、応募締切りは昭和20年12月15日。なお、懸賞募集の要項発表は昭和20年10月30日でした。

赤枠で囲ったのは冒頭で紹介した、平山秀山堂社名入り封筒に入っていた台紙に貼られた原図写真と同じものですから、封筒の消印日付である昭和20年1月10日には、この原図が存在するはずがありません。
このことから、封筒と台紙は別々の性格のものとなり、封筒は台紙を入れるための単なる2次利用ということになります。

次に秀山堂切手の製造についてですが、ご存知のとおり製造には平山秀山堂、伊藤製版所、小堀製版所の3社が絡んでおり、仕事の分担は以下のとおり。
秀山堂は、逓信省から直接的に仕事を受け、印刷を担当。
伊藤製版所は、台枠の製作を担当。この時に台枠と一体となっている銘版も彫っている。
小堀製版所は、切手を刷る(印面)銅凸版を製作。

これらの会社は下町に所在する協力会社で、小堀製版所は焼け跡の敷地に応急の焼き付け場を設け、使用した銅板も戦時中に住友金属から入手したものを防空壕から掘り出して使用し、秀山堂に納品していたことを記録しています。
これらのことから、切手の印刷が浅草橋にあった秀山堂で行われていたことが確定できます。

冒頭で、台紙から剥された小さな写真を利用して製版した可能性を言及していることを紹介しました。
これについても明白に否定でき、実際に製版を担当した小堀製版所が「印刷局から借りてきた平版印刷用の原図を写真撮影し、その縮小ネガを、数多くガラス乾板上に配列した種版を作った」と述べていますから、印刷局が提供(快くは貸してくれなかった)の原図を使用したことが明白です。
また、私の手元には秀山堂に保管されている原図写真(小堀製版の撮影と考えられる)の実物大コピーがあることからも、冒頭で紹介した台紙剥落の小さな写真が製版に使用されたものではないことがわかります。

最後になりましたが、肝心の写真貼り付け台紙の評価ですが、これはもう大変に素晴らしいものと言えます。
この台紙1枚で、塔30銭切手の図案決定までの経緯を存分に語ることができる内容。
塔30銭切手の収集家ならば、誰もがコレクションに加えたいマテリアルのはずで、もちろん僕もその1人ではありますが・・・。

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