大船と藤沢

先週の金曜日に藤沢在住の震災氏とお酒を飲んでいて、ふと思って作ったのが下の画像。
僕は中学・高校の時には藤沢から小田急線に乗っていましたし、小学校の時は大船から横須賀線で鎌倉へ。
そして大学生の時は、大船から東海道線で都内へと通っていたので、藤沢駅、大船駅ともに馴染の駅というわけ。

画像は、横浜から藤沢までの旧東海道と鉄道線を見てもらいたくて作ったもの。
せっかくなので、国際文通週間の切手を貼り付けて、切手のブログらしく仕上げました。

明治時代に東海道本線を敷設し駅を設置する時には、宿場内か隣接地を基本としています。
具体的には、地図に見られる保土ケ谷と戸塚の駅は宿場内に設置されていますし、神奈川は駅が線路の線形に制約されて埋め立て地に設置されたものの、神奈川宿の隣接地になっています。

それに対して藤沢は、宿場と駅が約1キロ離れています。
歩くと10〜15分くらいでしょうか。

この離れた理由について、いつの頃からか「藤沢宿の住民が、鉄道駅を作ることに反対した」と囁かれるようになってしまいました。
各地でよく聞くところの「鉄道忌避伝説」というやつですね。
この「鉄道忌避伝説」というのはホントよく聞くのですが、その多くは都市伝説みたいなもので実際に確認できるものは、極めて限られています。

では、実際はどうだったのか?

ここに大船駅が関係してくるのです。
鉄道線の敷設については、地形などの制約が無い限りにおいては最短距離を通るため東海道線も旧東海道に沿った形で敷設されているのが、図から見て理解できると思います。

そこで、よく見てもらいたいのですが、戸塚から大船を経由して藤沢に至る線形が旧東海道から遠く離れていますよね。
これには、横須賀線の存在が大きく関係しているのです。
東海道線を敷設する時に軍部からの強い要求があり、東海道線から分岐して軍都とも言える横須賀へ至る鉄道線の敷設を要求されたのです。
そのため、わざわざ遠回りになる大船を経由して、そこを分岐点として南下する鉄道線を敷設することになってしまったわけです。

原則に従って、戸塚から旧東海道沿いに敷設したばあいは、赤線で囲った丘陵地帯が邪魔をするため、横須賀へ至る路線の敷設費用が高額になることから、仕方なく大船経由としたわけです。
ちなみに、横須賀線の敷設費用は計上されず、東海道線の敷設費用の中から流用せざる得ない状況でした。
明治政府は、貧乏だったのです。

上記のようなことから、無理やり大船を経由させたため、そのシワ寄せを受けたのが藤沢でした。
線形上の都合から藤沢宿へ駅を設置することが出来ず、1キロほど南の現位置になってしまったのです。

下の画像は、三十数年前にカメリアオークションの売れ残り即売品として入手した藤沢局の不統一印。

画像では「会計」だけしか見えませんが、実際は「会計検」になります。
特に珍しいわけではなく、同局の不統一印としてはよく見かけるもの。

大船と藤沢」への2件のフィードバック

  1. 当方も「鉄道忌避伝説」の都市伝説を信じていました。良くわかりました。それにしても、遊行寺の坂周辺に鉄道を通すのは、大変だったでしょう。大船経由になったお陰で、今度「村岡」新駅が出来る事になりました。駅名は「東藤沢」や「新鎌倉」では双方の住民が怒るので「大藤」駅あたりでは、余りにも安易かな。「会計検」をお持ちとは。

    1. いつも、ありがとうございます。
      やっぱり駅名というのは、その所在地を名乗るべきというのが、私の持論です。
      これは市町村名にも同じことが言えて、「西東京市」なんて言われても「どこよそれ?」って感じです。
      「雲南市」に至っては、「それは中国ですか?」みたいなものですね。
      アホな福井県には「越前市」「越前町」「南越前町」が隣同士であります。
      もはや何がなんだか・・・。

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