ようやく、毎年恒例1月超絶繁忙期を脱しました。
あとは3月上旬まで、熊本、大阪、博多、仙台の案件が残っているのですが、そちらはポツポツと進んで行くので、何週間も更新が途絶えることは無いと思います。
下の画像は、毎月恒例の吉田女史からの贈り物で、東京熊野前局の風景印。
印影にムラがあるので、隣りに告示の印影を載せておきます。
主題は鉄道が二つですが、下は都電荒川線で立体交差の上を走っているのは舎人ライナー。
ちょうど熊野前局の所で交差するので、その様子を題材に選んでいるわけですね。
その位置関係を見てもらうと、下の地図のようになります。
さて「熊野前」という局名は何に由来するのでしょうか?
「前」と付くので、「熊野さんの前」みたいな感じ???
「熊野前」という名前は、都電荒川線の前身である王子電気軌道が大正2年(1913)に敷設された際に「熊野前」停留所を設置したことに始まりますが、実はその近くにあった熊野神社に由来するのです。
つまり「熊野神社の前」というわけですが、肝心の神社は明治11年に近くの八幡神社と合祀されたため停留所が設置された時は既に存在していませんでしたが、名残りとして一般的に使われていたので「熊野前」としたわけです。
下の地図は明治44年の「東京郊外図」。
上の現在図と見比べてもらうと、よくわかると思います。
左上にある宝蔵寺の位置は動いておらず、その右下にある小さな神社マークが熊野神社が合祀された八幡神社になります。
赤丸が、現在の熊野前局が位置する辺りになりますが、当時は下尾久村であることがわかります。
下尾久村の社が熊野神社で、上尾久村の社が八幡神社だったのでしょう。
それにしても面白いのが、常磐線から北側は荒川まで水田が広がっていたことで、郊外扱い。
尾久村付近は、大正15年3月までは北豊島郡として行政は郡役所が管轄し、東京市へ編入されるのは昭和7年10月になってからのことです。
いつも、お便りの報告ありがとうございます。
お礼のコメントが大変おそくなりまして、ごめんなさい。そして、熊野前郵便局の風景印が薄い印影で大変残念です。
初日印の官白を持っていたはずなので、探し出したら、お持ちします。
明治44年の地図は初めて見ました。もしかしたら、小学校の時の社会科の副読本「私たちの荒川区」載っていたのかもしれません。覚えていないだけかもしれません。今の「町屋斎場」は「日暮里火葬場」といったのですね。 興味深い内容の昔の地図と現在の地図を掲載していただきありがとうございます。
吉田 さん
いつもお送りくださいまして、ありがとうございます。
毎月、楽しみにしています。
ポストに配達されていると単純に嬉しいのです。