昭和42年4月に第1回目の競売が行われたグルックナー・コレクション。
その膨大な量のコレクションの一部が3回に分けて売られましたが、鉄郵印関係は鉄郵印グループが整理を行い、別の売り立てとして開催されました。
それが下の画像のもの。
タイトルの頭に「ガロア=グルックナー」となっていますが、これはガロア・コレクションをグルックナーがそっくり引き継いだことによります。
ガロアは、ウッドワードやキャスパリー、アレンほどには今の日本で有名ではありませんが、これはコレクションそのものが競売に掛けられることもなく、全てがグルックナーに吸収されてしまったことに起因するものと考えられます。
ガロアは明治36年に来日し、フランス領事として長く日本に住まわれ、日本語もペラペラだったと言われています。
昭和戦前期の郵趣界では、在日外国人郵趣家として知られており、日本郵便切手会の座談会にも出席され、日本とヨーロッパの郵趣界の違いであるとか、日本切手のことを話されています。
その記録は『郵便切手』第一巻第三号に記録されています。
太平洋戦争が始まるまで、ガロアは横浜の山手186番地にあったフランス領事館(敷地内に領事館と住居があった)に住んでいましたが、昭和18年9月29日に山手を含む一帯が絶対居住禁止区域に指定されると、渋谷区青葉町稲葉邸に移りましたが、パリが連合軍に解放されると敵国人扱いとなり、軽井沢に移動させられることになりました。
ガロアの軽井沢での住所は、軽井沢1008番地。
もちろん現在とは住所表記も異なりますし、区画割も若干違いますが、今で言うところの「軽井沢銀座」と呼ばれる商店街の裏側にあたります。
下の画像の赤丸がその位置で、軽井沢幼稚園に隣接した辺りになります。
ところで、グルックナーが引き継ぐことになったガロア・コレクションですが、空襲の被害を全く受けることはありませんでした。
なぜなら、ガロアは全ての切手を軽井沢に移動させていたからで、その量は大トランク5個分であったそうです。
ガロア・コレクションがグルックナーに譲渡されたのは1950年代のことであったらしいのですが、その辺の事情についても知りたいものです。