気がつけば、今日は「鉄道の日」。
画像の切手は、シエラレオネが1991年5月に発行した「日本国際切手展 91」を記念したもので、言うまでもなく収集家目当ての、いわゆる「いかがわしい切手」の1枚です。
ですが、僕にとっては物語の主役みたいな切手。
描かれているのは、鉄道好きでない人でも名前ぐらいは聞いたことがある「D51形蒸気機関車」。
製造開始は1936年ですから、昭和11年。
D51を題材とした切手は国内外に何種類も存在しますが、ここに描かれたのは1,115両の製造数のうちの最初期のタイプで、煙突から延びるドームが蒸気安全弁のところまである、通称「ナメクジ形」と呼ばれるもの。
これが初期車の特徴なので、切手のように小さな印刷物でもすぐにわかります。
このD51、実は僕が以前に住んでいた福井県にあった敦賀機関区に全国に先駆けて初号機と2号機が最初に配属されているのです。
敦賀機関区の受け持ち区間には、柳ヶ瀬峠と山中峠という国鉄でも有数の難所が2つもありました。どちらも1000分の25パーミルという急勾配に連続するトンネルで、機関士泣かせどころか、昭和3年には乗務員3名死亡の窒息事故まで起こしています。
このような敦賀機関区の過酷な運行条件に対して、当時の鉄道省は最新鋭であったD51を真っ先に敦賀機関区に投入したのですが、初期車は散々な出来で、機関士からはボロクソの評価を受けました。
大きな欠点は2つ。
ボイラー圧力を高めているのに、軸重を軽くしたことから急勾配区間では空転が頻発。
もう一つはキャブ(乗務員が乗る場所)が狭く、連続するトンネル区間内ではキャブが異常に高温になってしまうこと。
敦賀機関区に昭和11年に配属されたD51最初の2両は、13年には0になってしまいます。
これは、いま紹介した設計上の不都合が原因であったことは明らかで、1年間の改良の後、設計変更されたタイプが昭和14年から再び敦賀機関区に配備され始め、昭和19年には最多の40両を数えるまでになります。
戦前の敦賀機関区の乗務員達は、「D51を育てたのは自分たちだ」という思いを持っていたそうです。
当時最新鋭のD51を「こんなポンコツ、使えない」と、敦賀機関区が本省に突っ返したからこそ、国内最多の1,115両の生産に結びついたのでしょう。
この切手、D51物語にはピッタリな題材なのです。
はい、今日は鉄道の日ですね。
今日から目白の切手の博物館で、鉄道切手展を始めています。
17日までです。