20世紀デザイン切手から東京駅

今日は9月1日で、震災記念日ですね。
震災記念日なら定番は震災切手なのですが、なぜか東京駅。
震災では、新橋、万世橋、両国、上野など、そのほか多くの駅が焼けましたが、周辺は丸焼けになったにもかかわらず、東京駅舎はギリギリのところで、ほぼ無傷で残ったのです。
その数十年後の空襲では、残念ながら燃えてしまいましたが・・・。

震災後に鉄道や鉄道電話、鉄道電信の復旧が他よりも早かったのは、東京駅舎が残り、そこを拠点に方策を施すことができたからなのです。
鉄道省『国有鉄道震災誌』は、読まれることは少ないですが、基本文献の一つ。

今、私達が利用する東京駅は、丸ノ内口、八重洲口ともに改札口やショッピングゾーンがあって大変な賑わいですが、意外と知られていないのが、当初は丸ノ内口だけで八重洲口は無かったということ。

東京駅の開業は大正3年の年も押し迫った12月20日。
東京駅の計画に意識されたのは、日本の玄関口としての思想。
皇居からの直線道路(行啓通り)を中心に皇族専用口を設け、北へ伸びたウイングに降車口、南へ伸びたウイングには乗車口。
すなわち、丸ノ内側一帯を日本の政治や経済の中心地として、それに相応しい設計としたわけです。

もちろん、その反対側である京橋方面には人家が建並び、その奥には日本橋や銀座があるのですが、そんなことは眼中にありませんでした。
厳しく言い換えると、丸ノ内は「ハレ」の空間で、京橋方面は「ケ」の空間とでも言いたげな設計。
造られたのはヤードのみ。

ですから、京橋方面の人達が東京駅を利用するには、一度線路を潜って丸ノ内側までやって来るしかなかったのです。
リーフ中央の図面が、東京駅計画図でその様子を知ることができます。

月日が過ぎ、やっと京橋方面からの入口が出来たのは昭和4年のこと。
その間、15年になります。
もちろん自由通路などではなく、出来たのは小さな改札口と乗車券のみ(特急や急行券などは扱わない)発売の窓口だけ。
下の絵葉書を見ると、ヤードを跨ぐ形で細長い跨線橋がホームに延びているのがわかると思いますが、これがそれです。

現在の八重洲口が賑わうのは、戦後まで待たねばなりませんでした。

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