昨日に続いて鉄道小型印ですが、今日の小型印はちょっと変なんですよ。
変な話しの前に、リーフを見てください。
マテリアルを置いて、その下に解説文というのはいつものパターンです。
で、ちょっと違うのが一番下の路線略図で、ここがこのリーフのミソ。

下の印影の拡大画像で「米原敦賀間・・・」となっているのが読めると思います。
最初に「変」な小型印としたのは、この部分なのです。

実は、交流電化されたのは田村・敦賀間であって、米原・田村間は違うのです。
簡単に行ってしまうと「エラー小型印」となりますかね。
その関係を示したのが、リーフ下部の路線略図で、上に駅名、下に直流電化、非電化、交流電化の種別を示してあるので、わかりやすいと思います。
小型印に描かれた機関車は、この電化にあわせて登場したED70形交流電気機関車です。
現在は、残された1号機が北陸線長浜駅に隣接した「長浜鉄道スクエア」で保存展示されており、下の画像がその展示状況です。

実は、僕はこのED70形1号機の保存に関係したことがあるのです。
この機関車は、旧国鉄も重要性を認識しており、またJR化後もそれが引き継がれ、敦賀第二機関区(敦賀には蒸気機関車とディーゼルが所属する第一と電気機関車の第二の2つの機関区があった)で保存されていました。
それがJRの都合により困難となったことから保存先を探しており、交流電化記念の地でもある地元敦賀市を第一候補としていました。
僕は前職との関係から、敦賀市の職員と善後策を検討。
関係各部長や市長説明用の資料作成を引受るなど、側面から応援。
首尾よく受入了解へと役所内ではまとまり、最後の市長説明へ。
ところが、ここで話しはひっくり返り、当時の敦賀市長は「受け入れるつもりはない」と一蹴。
市長以外は、受入で話しはまとまっていたのですがねぇ・・・。
まぁ、地方自治体ではよくある話しではありますが。
こうした経緯があり、ED70は長浜へ行ってしまったのです。
この話しは、それから10年以上が経ってから、敦賀市を大いに後悔させることになります。
北陸新幹線の敦賀延伸が見えてきた頃、福井県も敦賀市も慌てたのが観光資源の少なさ。
そこで、そんな時になってから「鉄道の街、敦賀」、なんて言い始めたのですが、核になるものが何もなし。
結果は、今の敦賀を見ればあきらかですね。
あの当時から地道に資料を集めていれば、結果は違ったものになっていたでしょう。
長浜のED70形には、こんな裏話があるのです。
もう二十数年前の話しです。