画像は、2015年に発行された「海外グリーティング(差額用)」から「すき焼き」。
連刷切手で、左隣はラーメンでした。

東京で、一般的に「すき焼き」という名称が使われ出したのは関東大震災以後のことで、それまでは「牛鍋」と呼ばれていました。
関西風の「すき焼き」が、明治初頭以来使われていた「牛鍋」という言葉を駆逐してしまったのはなぜでしょう?
この辺のことは勉強不足。
江戸時代には、少数の例外を除いて牛肉を食べることは禁じられていましたが、幕末に西洋文化が流入してくると、なし崩し的に食文化として広がり定着していきました。
皆さんも、文明開化の一つとしての「牛鍋」を、日本史の授業で触れたのではないでしょうか。
牛という大形動物を食用とするためには、殺し、解体するための特殊技術と場所が必要です。
それを担っていたのが、賎民と呼ばれた人達であったり、また、その系譜上にあたる人々。
牛を食肉用に解体、加工する場所を「屠牛場」と呼びますが、皆さんがジャペックスやスタンプショウで行く浅草にも明治初期からありました。
下の地図は、明治9年発行の「東京全図」からの一部で浅草の部分を抜いたもの。
理解しやすいように赤線と赤文字を付け足してあります。

皆さんがよくご存知の都立産業会館とは、浅草寺を挟んで反対側に屠牛場がありました。
縮小された画像では読めませんが、地図上にも「屠牛場」と書込みがあります。
屠牛場の左側(西側)に南北方向の直線道路がありますが、これが現在の国際通りで、この通りを挟んだ屠牛場とは反対側の位置には、現在、浅草ビューホテルが建っています。
ここまで紹介すると、土地勘としてわかっていただけるのではないでしょうか。
明治の浅草には多くの牛鍋屋がありましたが、そこではここの屠牛場(浅草以外にもありました)から肉の供給を受けていたと思われます。
初期の頃の屠牛場では、夜間に作業を行い、早朝に肉の配達を行っていました。