8月22日の「1通の葉書から」の記事の中で、越前国足羽郡所在の蔵作局について若干触れましたが、下の画像は同局の開函証印帳からの一部。
本来は簿冊形態であったはずですが、バラされた状態で二丁分、5月1日から31日までの1ヶ月分を見ることが出来ます。
証印帳は、上段にKG型印で日附が押され、その下に「一」「二」「三」と開函印が押されていますから、蔵作局の担当する郵便差立函が三ヶ所に置かれていたことがわかります。
残念ながら、その郵便差立函がどこに設置されていたのかを知ることはできません。
そこで興味を持ったのが、同局の管轄範囲です。
つまり、三ヶ所の郵便差立函を設置するには、どの程度の範囲と人口分布なのか・・・。
そこが分かれば、雰囲気的に一歩でも近づけるに違いないかと。
明治18年3月調査の『郵便区画町村便覧』を見ると、蔵作局の管轄範囲が赤谷村、折立村、西河原村、東河原村であったことが分かります。
もちろん、これらの村は時とともに合併を繰り返して今は存在しませんが、位置関係を現代の地図に記すと下記のようになります。
こうして見ると、福井と大野を結ぶ美濃街道(大野から先、美濃へ抜ける街道)筋に合流する狭小な谷筋に沿って点々と位置する村々を、その管轄区域としていたことが分かりました。
この道筋は、かなりの勾配があり、直線距離で測ると約6キロ(実際は地形に沿って蛇行しているので、かなり長くなる)になりますが、そうした谷筋に自局も含めて3ヶ所の差立函が設置されていたものと考えられます。
統計書を見ると、同局の郵便物発着数は下記になります。
明治13年 発239 着395 1日平均 発0.66 着1.08
明治14年 発720 着1136 1日平均 発1.9 着3.11
明治15年 発1329 着4296 1日平均 発3.64 着11.76
この差立数の中には、蔵作局に投函されたものも含まれていますから、実際に差立函に投函された数は少なく、回収0通が続く日もあったに違いありません。
明治10年代の田舎の小局の実態に、少し近づけた気がします。