戦災日付印(戦後の物資不足時も含む)の使用例は、数局(杉並方南局や徳島元町局、その他)が知られていますが、中でも有名なのが東京の本郷局だと思います。
画像のリーフは「なんちゃって郵便史」からの1リーフで、本郷局での使用例を示したもの。

拡大画像を見るとよくわかると思いますが、D欄が無く、A欄とD欄を合体させて自局製の局名活字を入れて使用しています。

この日付印を使用した本郷局は、戦災でかなり悲惨な運命を辿っています。
元々は、本郷区富士見町に局舎を構えていたのですが、昭和20年3月10日の空襲で全焼し、本郷区駒込肴町にあった駒込局内に移転、業務再開は4月1日でした。
ところが、再開間も無い4月13日の空襲で再び焼け出され、今度は本郷区蓬莱町へ移転。
そこでも、5月13日の空襲により3回目の全焼となり、今度は本郷区真砂町真砂国民学校へ移転し、なんとか終戦を迎えます。
なにしろ学校内なので、終戦後は疎開から戻ってきた児童の受け入れなど、学校業務も通常へと戻る中で、いつまでも居候というわけには行かなかったのでしょう、4度目の移転先は、なんと東大構内!
たしかに、大学構内なら広くてなんとかなりそうですが・・・。
その東大構内の移転官報告示が、下の画像です。

このように、官報告示では「東京帝国大学構内」としか書かれておらず「東大構内ってどこよ?」という素朴な疑問が・・・。
実はこの疑問と調査の話しは、今を遡る三十数年前のこと。
こういうことは地元の人に聞くに限ると、学生時代に月に数回は訪ねていた、東大赤門前の井上書店さんの主(先代)にお聞きしたのです。
井上書店さんと言うのは、明治時代から続く古書店で、現在も盛業中。
事の子細を話したところ「あー、それはすぐそこですよ。私も手紙を出しによく行きました」と、わざわざ店から連れで行ってくれたのは、ものの数分も歩かない所で、それを今の地図に示すと下の画像の赤い四角の場所になります。

すっかり様子は変わってしまいましたが、今の工学部5号館の西隅にあたる場所にあったそうで、構内をうろつくことなく、道路からは小さな門を使って直接出入りができたとのことでした。
先に紹介した本郷局の戦災印の確認例を見ると、昭和21年4〜9月に集中していることから、この東大構内の仮局舎で使われていたものと考えられます。