風景印・三里塚局

昨夜、やっと帰宅。
今日は、10時半まで寝てました。

以前は、成田空港は海外に行く時にだけ使う空港でしたが、こちらに引っ越してからは家から40分弱で着くので、とても使い勝手が良い空港になりました。

僕らの世代だと、成田空港=三里塚のヘルメット集団という空港闘争のイメージが今でも色濃く残っていますが、その三里塚局で使われていた戦前の風景印が下のもの。

三里塚御陵牧場と桜の木が図案。
なんとも牧歌的で、ジェットエンジン音が常に響き渡っている現代のイメージとは全く異なる世界が、そこにあります。

この牧歌的なイメージこそが、成田空港建設へと直接的に繋がるものでした。
昭和37年から、運輸省は首都圏の新空港の候補地選定を始め、紆余曲折ののち昭和41年に現在の位置に決定されています。
位置選定の決め手となった大きな要因に、予定地内に下総御料牧場や県有林という公有地が多くを占めるため、用地買収が比較的簡単に済むであろうという予測があったためになります。
その安易な予測は大きく外れ、泥沼化したのは多くの皆さんの記憶にあることでしょう。

下の空中写真は、空港建設が始まる前の昭和36年7月26日に撮影された、現在の成田空港周辺のもの。

写真の下半分に、他の区画とは大きく様相が異なる大区画が見えると思いますが、これが下総御料牧場で今の成田空港の一部です。
上の風景印は、こうした情景の一部を風景印化したものになります。

現在の成田空港からは想像も出来ない風景が、過去には広がっていたことが戦前の三里塚局の風景印から知ることができます。

風景印・三里塚局」への2件のフィードバック

  1. 当時土地買収のプロである建設省が運輸省に協力を申し入れたら、縄張り争いの権化である運輸省が断ったのもこじれた一因だそうです

    1. いつもありがとうございます。
      へー、そのようなことがあったのですね。
      昔は、見送りや出迎えに行くだけでもパスポートが必要で、それがないと空港の検問所から中には入れませんでした。

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