明日から全日展。
先日、以前の全日展会場だった旧逓信総合博物館の位置について紹介しましたが、今日は今の会場であるすみだ産業会館が江戸時代にはどうであったのか紹介しましょう。
下の切絵図は、最も代表的な尾張版から「本所絵図」。
もちろん、長期にわたる江戸時代のことですから町の姿も変化しているのは当然で、本図は文久(1861〜1864年)の頃の本所の姿と思ってください。
四角枠で囲った部分が下の拡大図の範囲で、その右上には亀戸天神が見えますが、この位置は現在まで変わっていません。
そして、左上には吾妻橋、左下には両国橋の現在まで続く2つの有名な橋が描かれていますから、本図の範囲は理解できると思います。
地図の範囲外上方には、スカイツリーで有名な当時の押上村があります。
さて、切絵図にJR線とすみだ産業会館の位置を書き込んだのが上の図。
下の現在図と比較してもらうと、よくわかると思います。
全日展会場のすみだ産業会館は、現在図では丸井と表示されているところです。
切絵図で一番下に青く描かれているのが川で、それが現在図では緑色の首都高速道路が走っている場所。
この首都高の下に川が流れており、現在図で西之橋となっている橋が、切絵図では四ツ目之橋と記されている橋になります。
切絵図でこの川の北側に横長の区画が並んでいますが、現在図でも首都高の北側に同じように横長の区画が描かれており、これらが江戸時代以来踏襲されている区画であることがよくわかります。
さて、肝心の全日展会場のある区画ですが切絵図で見ると、武家屋敷の一部と田んぼ、そして下級武士が住む長屋であったことがわかります。
こうして見ると、今の東京の街並みは江戸時代以来の区画を基本に発達していることがよくわかると思います。
切手を見飽きたら、切絵図を見ながら街並み探検も面白いと思います。