画像1は、飯田橋局の風景印。
描かれているのは、江戸城外濠と中央線、そして牛込見附門の石垣と東京逓信病院です。
その飯田橋郵便局の最寄り駅はJR飯田橋駅で、改札を出ればすぐそこにあります。
この飯田橋駅のある中央線は、鉄道国有化法により明治39年10月1日に国有鉄道になるまでは、甲武鉄道という私鉄でした。
甲武鉄道は、明治22年4月11日に新宿〜立川間を開業し、同年8月11日に八王子まで延伸。
その後、市街線として新宿〜飯田町間の敷設免許を取得して、明治27年10月9日に新宿〜牛込を開業し、翌年4月3日に飯田町まで延伸しています。
この飯田町と飯田橋は似た駅名ですが全く異なる駅で、飯田町駅は廃駅となり現存していません。
当初、甲武鉄道は下の画像1に示すように牛込駅を設置し、その次の駅が終点の飯田町駅でした。
もともと飯田町駅は貨物と旅客の両方を扱う駅だったのですが、関東大震災後の復興計画の中で中央線の貨客分離を行い、飯田町駅は貨物駅として残し、旅客駅として牛込駅と飯田町駅の間に新駅を設置しました。
これが現在の飯田橋駅で、開業は昭和3年11月15日。
なお、飯田橋駅設置とともに牛込駅は廃止しています。
そこで、風景印に描かれた牛込見附の石垣ですが、飯田橋駅西口の目の前を走る早稲田通りの両側に石垣が現存していて、それを見ることができます。
それが、下の画像3です。
見附というのは、江戸時代に升形と呼ばれる区画を持った城門のことで、城内外を出入りする通行人を監視した場所を言います。
石垣は、この升形を形成するためのもの。
画像3で見て欲しいのは、見附の石垣があるのは台地の上。
そして、右端には江戸城外濠跡の水面が見えています。
つまり、中央線は台地と外濠の間の崖線に沿って敷設されているわけです。
その崖線に沿って敷設された事がよくわかるのが画像4。
大きな黒の四角枠で囲った部分が、画像2の範囲ですから、画像4はより広域の地図になります。
下中央には江戸城があり、それを囲むように内濠、更にその外側に大きな外濠が囲っている様子がよくわかります。
中央線は、赤坂離宮(現迎賓館)の下をトンネルで抜け四ッ谷駅に入り、そこから先は外濠の崖線に沿って敷設されていることがわかります。
図4で注目してもらいたいのが、当時の甲武鉄道(後の中央線)が設置した四ッ谷、市ヶ谷、牛込、飯田町の各駅ですが、全てが見附(図中の小さな黒枠)が置かれていた所に対応しており、駅の選地に前時代の遺物である見附が重要な役割を果たしていたことがわかります。
たった1個の飯田橋局の風景印をきっかけに、鉄道史の一側面を知ることができました。